宝塚バカ一代!になれるか?

極美慎さんの  ベアタ・ベアトリクス
ツマランのだろなとタカを括っていたら、イヤイヤこれがナカナカどうしてソコソコだったのです。プロローグが例のアレだったので、こんなのヤめればいいのにと思っていたら、意外にも興味深く引き込まれたのです。西洋美術史は既成の権威主義を破壊していく、血気盛んな若き芸術家たちの挑戦が面白かったりするのです。そこの部分が少し喰い足りないし、オフィーリアの作品自体にも、もうちょっと触れて欲しい気がしたのです。しかし、そんなのは老婆心というものなのかもしれません。ケレンミが格好良いと勘違いしている残念な演出家が目立つタカラヅカさんにあって、いかにも劇的な演出は、イイね、であります。この作・演出家の他の作品を見てみたいと、思ってしまったのでした。最後に極美慎さんですが、礼真琴さんをナゾっているように見えました。勝手な感想ですが。もうちょっとオラオラな感じが出ても良いのかな、と思いました。イヤ別に亜音有星さんや縣千さんがオラオラ感ギラギラと言ってるわけではありません。イヤ言ってるか。

桜の木 花はひらけど 花曇り

地下鉄に乗っていたら、突如、扉上のモニターに宝塚歌劇団の宣伝映像が流れ出したのです。大階段で上下左右ズラリと居並び重厚なダンス、舞台上での軽やかなダンス、そしてビールマンスピンのような美しいリフト、銀橋での流麗たるダンス、極めつけは羽根を背負ったトップさんの荘厳な輝き。そんな映像を見詰めていたのは、私一人でした。他の乗客は気づきもしないのか、無関心の様子でした。思いがけず、ほんの数秒だけのタカラヅカタイムだったのですが、壮麗な映像にイイ気分だワイとなったです。「壮麗帝」桜木みなとさん主演であります。この舞台、致命的にダメなのは、主人公の顔が見えないところです。イヤイヤ桜木みなとさんは美しいのです。私は好きです、桜木みなとさん。物語のキャラ立ちが、なんだか残念なのです。主人公の人生が平板でツマランのです。山あり谷あり波乱万丈とは全く無縁で、予定調和的に歩んだ人生といった感じであります。拾った男女、男は側近、女は側女となったのは唐突感ありまくりですし、側近は失政から泣いて馬謖を斬り、女は病で死別となり終了。おサルの電車もどきで、園内を一周しましたって感じでしょうか。ジェットコースターのようなスピード感もスリルもなく、安全運転ゴクローサンであります。これじゃツマランと感じてしまうのも無理はないのです。

そろそろ飽きた、下車しよか

タカラヅカさん面白くないわ、最近そんな思いから、タカラヅカさんを見たいという欲求が失われつつあります。録画したスカステさんの番組を見始めるのですが、タカラヅカさんの世界に入り込めずに、読みかけの本の続きが気になったり、録り溜めた特撮ものやアニメ等見始めよ、とか思ってタカラヅカさんを途中でポイッと放り投げてしまうのです。私をタカラヅカさんに惹きつけるジェンヌさんは、現役ではぼくたちの暁千星さん、亜音有星さん、縣千さんの三人です。OGでは麻実れいさん、真矢みきさん、愛華みれさん、真琴つばささんです。お気に入りのジェンヌさんが連日オンエアされるわけでもなし、レビューはライブで体感するものだし、お芝居はツマランしで、タカラヅカさんから心が離れていってしまうのは仕方のないことなのです。私のような門外漢からすると、タカラヅカさんのトップスター制というのがソモソモ疑問なのです。背負う羽根の大きさ、序列がナンボのもんじゃ、そんなもんブッ壊してしまえと思うのです。興行毎にガラガラポン(死語!)すればエエじゃないか、と思うのです。しかし、伝統のタカラヅカさんが自ら指令破壊するはずもなく、今のビジネスモデルが通用する限り、タカラヅカさんの日常は続いていくのでしょう。

読みだしたらヤメられない止まらない

三十数年前、シドニィ・シェルダンの「ゲームの達人」なる小説の派手な広告が、新聞に載っておりました。かなりキャッチーで刺激的なコピーが使われておりまして、目を引いたのです。「読みだしたら面白過ぎて止まらない」とか「寝る前に読まないでください。寝るのも惜しくて読み続けてしまいますから」みたいなカンジだったと思います。当時、とにかく面白い娯楽本に飢えていた私は、早速これに釣られて飛びついたのです。で読んでみますと、コレが本当に面白い。夢中になって活字を追った記憶があります。しかし、読後感が何も残らない。当時の私は、知識を得ようとか、教養を身に着けようなどという目的で読書をしていたわけではなく、ただ単に面白おかしく時を過ごせそうな本を求めていたのでした。ですからシドニィ・シェルダンの著作はまさにうってつけだったのです。あれから、三十年以上の月日が流れ、私の記憶も薄れ、「ゲームの達人」がどんな内容だったかスッカリ忘れてしまいました。先日、久々に「ゲームの達人」を手に取り読んでみたのですが、再読の感覚が全くなくマッサラな感覚で読むことができました。記憶力が不自由なのも、場合によっては利点になるという見本であります。とにかくエピローグがウマい。読み終えてからまたエピローグに戻ると、ハハァ、なーるほどネ、ヤラれたわ、と作者の上手さに脱帽するのです。ツマラなくて意味の無いエピローグを付けたがる才能の無いタカラヅカさんの作家さんは、「ゲームの達人」でも読んで勉強しなさい。

番組表見て、タメ息ですわ

4月の番組表がアップされました。が、見たいと思うの少ないです。映像コンテンツとしてタカラヅカさんを見た場合、ツマランのが多いですから……。愛華みれさんの「源氏物語 あさきゆめみし」は、見たいです。あと朝香じゅんさんの2作品くらいでしょうか、見たいと思うのは。「帰ってきたタカラジェンヌ」という文字を見ると、「帰ってくれジェンヌさん」と言いたくなります。今のタカラヅカさんも過去作品の二番煎じや、著作権料払って他人の褌で角力を取ったりとか、コンテンツ不足なんでしょうか。魅力的なジェンヌさんはたくさんいるのに、であります。ぼくたちの暁千星さんは言わずもがなですが、新人公演なのに本公演をタコ殴りしてしまった亜音有星さんや、縣千さんなどであります。演目がショボいので、ジェンヌさんが気の毒であります。

ディカプリオ版 ギャツビー

ギャツビー登場まで、かなり引っ張ります。勿体振るわけです。謎の男ギャツビーを、殊更に強調するかのようです。視聴者からすれば色男のディカプリオが現れるのは分かり切ったことなのですが、それでも鬼が出るか蛇が出るか、豪華な乱痴気騒ぎを大枚叩いて催す目的は何か?画面一杯に謎を提示することで、見る側の関心をグイっと引き込んでしまうわけです。そして、謎が明かされると、その純情な動機に、意外ね、となってしまうのです。ギャツビーが相手の挑発に釣られ逆上してから、物語は一気に急展開し、破滅の坂を転げ落ちていくのです。この辺りの心理的な揺れ動きも、上手く表現されていました。幸せだった時は、ギャツビーが放った服に埋もれたデイジーが、最期はギャツビーが花に埋もれて眠ることになるわけです。「華麗なるギャツビー」は舞台ではなく映画向き、が映画版を見た率直な感想でした。

儚くも美しい精神の崩壊

タカラヅカさんの中の作家さんで先生とお呼びしたい先生は、植田景子先生だけであります。他の作家さんは敬称略です。そんな植田景子先生の「THE LAST PARTY」は、紫城るいさんの為に書かれた作品であると勝手に思っております。贅沢三昧のセレブ感を得意満面にヒケラカす某国際政治学者さんのような絶頂から、次第に精神が破綻していく狂気のゼルダ役は、まさに紫城るいさんにピタリとハマるのです。大空祐飛さん版と大和悠河さん版の二つのバージョンの紫城るいさん版ゼルダを楽しめるとは、何と幸せなことでしょう。植田景子先生の素晴らしい作品に紫城るいさんのツープラトンとは、昼間からシャンパングラスを傾けながら「幸せ過ぎる」と宣わりたくなるくらい有頂天な心境であります。ステキに美しい紫城るいさん版ゼルダですが、現役ジェンヌさんで紫城るいさんの牙城に肉薄できるのは、ただ一人、朝美絢さんしかいないでしょう。